この記事では、台湾美術界の近代化に関わった超重要人物 塩月桃甫(しおつきとうほ)の一生にせまります。
なんといっても、彼は台湾原住民族を描いた稀な日本画家の一人です。
このメディアで取り上げないわけにはいきません!
日本で彼の名を聞いたことがある人は、少数だと思います。しかし、台湾では彼の功績が見直され、再評価されてる今アツい人物。
そんな彼の人生の軌跡をいっしょにたどってみるみましょう!何か新しい発見があるかも!?
それでは、本編スタート!
※塩月桃甫への敬意と親しみを込めて、この記事では塩月先生と呼ばせていただきます。
自由道を貫いたアーティスト
塩月先生は個性と創造性を重視し、とにかく自由を貫き通すことを信条にしていました。
そのスタンスは海を越えても変わらず、going my wayなアーティストでした。
彼の生い立ち、台湾にわたり、なぜ原住民族を描いたのか、みていきましょう。
塩月桃甫のプロフィール
簡単に先生のプロフィールを紹介します。
1886(明治19)年、宮崎県児湯郡三財村(現在の西都市)に生まれます。
本名は永野善吉。四人兄弟の三男坊。
宮崎師範大学(宮崎大学の前身)で学び、15歳で代用教員になります。
20歳のとき、塩月家の婿養子に迎えられます。
しばらく教職に就くのですが、絵画への道を志すようになり東京美術大学(現在の東京芸術大学)に入学します。
卒業後は大阪、愛媛にわたって9年間教鞭をとりながら、画業にも取り組みました。
ちょうどこの期間に大正デモクラシー(自由主義的運動)が起き、少なからず先生にも影響を与えたかもしれません。
自分のスタイルを確立させながら、当時最も権威ある文部省美術展覧会で初入選を果たしました。一躍、みんなの注目を浴びます。
日本での画家活動を続けるかたわら、稼ぎのいい仕事(子どもの教育費を捻出するため)を探していたある日のこと。台湾での教員募集の求人を見つけます。(当時、台湾は日本の統治下)
内容が好条件だったのと、南国に強い憧れを抱いていた先生は1921(大正10)年、36歳で妻子を連れて台湾に渡ります。
台北一中や、台北高校(現台湾師範大学)で美術教育に携わりながら、絵描きも継続。
第二次世界大戦後、宮崎県に帰郷後も絵を描き続け、宮崎県の美術界にも大きく貢献をしました。1946(昭和27)年には宮崎県文化賞を受賞しています。
ロイド眼鏡にトルコ帽で授業!?
さて、塩月先生はどんな人物だったのでしょうか?
教員時代の生徒の話では、先生は教師に義務付けられていた官服を一度も身に付けず、教育方法は当時では珍しい個性と創造を重んじた自由主義教育法だったそうです。そして、めちゃくちゃ親切で優しかったとか。
今では当たり前な考え方かも知れませんが、当時は軍国主義で思想統制などガチガチな時代でした。時代に反して塩月先生はリベラルアーツを重視していた人物だったことがよくわかります。
ネタですが、塩月先生は髪が薄かった(ハゲていた)ので帽子をかぶって隠していたのだとか。
台湾時代の教え子の、塩月先生に対する印象はというと
ロイド眼鏡にトルコ帽、おまけに頭はハゲた部分のまわりでカールされている。その人の頭の構造は一体どうなっているのだろうかと一瞬疑った
なんだかアバンギャルド感ありますね。
「自由」を重んじ、優しさとユーモアを兼ね備えた、今でいう教師の鏡のような方だったのでしょう。
作家中村地平の小説『告別式前後』で塩月先生と息子さんの仲良い様子が描かれています。
※息子の塩月赳(しおつきたけし)は、太宰治の親友で小説『佳日』のモデルです。
先生は、周りから愛されるキャラクターだったようです。
塩月桃甫流は今も生き続けている
「技法は使うな。思いのまま描きなさい」
度々、生徒にそういっていたそうです。
自由思想に基づき先生は、生徒の個性や創造性を大切し、自由発想の重要性を主張していました。
これを描け、あれを描けなど一切指示は出さず、生徒の好きなように絵を描かせました。
その精神は、日本・台湾でアーティストとして活躍している教え子たちに受け継がれているのです。
台湾時代
台湾にわたった塩月先生。いよいよここからライジングしていきます。
精力的に台湾美術界の発展に関わり、約25年間にわたり台湾美術展覧会の創設など台湾美術界の振興と近代化に努めた軌跡をたどってみましょう。
台湾原住民族との運命的な出会い
先生が制作した作品の中で、多く見られたテーマが台湾の風物でした。
風物とは山、海、森、そして原住民族を指します。
写生旅行中、台湾原住民と運命的な出会をします。それから原住民族の部落に何度も訪れました。特に泰雅族(以下、タイヤル族)と触れ合いながら、原住民族に根ざす伝統、文化、慣習、言葉、服装、楽器などに魅了されていくようになります。
その時のことを日記にこう綴っています。
太陽の輝く真下に原始の姿を見せる彼らであった
誰が神代の昔を遠く思い出さずにいられよう
塩月桃甫の日記より
この体験が原住民族を描くきっかけとなりました。
このあといくつか作品を紹介しますが、先生がいかに彼らのことを観察し、理解していたのかが作品を通してわかります。
台湾美術近代化の立役者
台湾での塩月先生の知名度が上がりつつある中、仲間とももに台湾美術界を盛り上げていきます。
1927(昭和2)年に台湾総督府美術展(以下、台展)を創設します。
当時台湾には専門の学校がなく、台展はアーティスト同士の交流や学習の機会を提供していました。また、台展で入選するこど新人アーティストデビューとしての登竜門だったともいわれています。
先生は台展の審査員となり、台湾の美術振興の基礎を築き上げたのです。
1931(昭和6)年には日本の「独立美術協会」の台北巡回展を開催。この展覧会は、当時の新聞で
「大いに在台の画家たちを刺激し(中略)眠れる画壇を刺激した」
と高く評価され、革新的展覧会として受け入れられました。
勇気ある行動
1941(昭和16)年、日本が第二次世界大戦に本格参戦すると、台湾原住民族も含め皇民化(日本人化)政策が急速に進むようになりました。
日本政府の台湾原住民族に対するひどい扱い、彼らの伝統、文化が失われていく現実。
原住民族の激しい抗日運動もあり犠牲者が多く出しました。
戦争に勝つために果たしてそこまでしなくてはならないのか?
そんな状況に先生は苦悩します。
葛藤の末、先生は自由精神のもと、原住民族の絵を描き続けました。
そして、発表したのが『母』という作品です。
作品を通じて、日本政府に対してアンチテーゼを唱えたのです。
批判や取り締まりに恐れず立ち向かう、自由を貫いた勇気あるアーティストだったことがうかがえます。
塩月桃甫の作品をみてみよう
それでは、塩月先生の作品をいくつかピックアップしたので紹介していきます。
ロボ
ロボ(Lubou)はタイヤル族の口で吹く伝統的楽器です。
皆さんどのような印象を持ちましたか?
「なんかドス黒いな〜」「目が怖い」などいろんな感想があるかもしれません。
先生はタイヤル族の部落でロボを吹く子どもたちをよく見かけていたようです。
一応、技法についても少し触れておきたいと思います。
野獣派(フォービズム)と呼ばれ、原色を用いることで既成概念にとらわれず、心に感じままに描く20世紀初頭の画法です。代表的な画家としてゴッホやゴーギャンがいます。
他にもロボに関わる作品を何点か描いています。
母
何かから逃げている母子の様子が描かれています。
いったい何から逃げているのでしょう?
1930年10月、賽德克族(以下、セデック族)による最大規模の抗日暴動事件が起こりました。
この事件で日本側、セデック族側ともに多数の犠牲者が出ました。
タイトル『母』と題されるこの作品は、日本軍の攻撃から逃げ出す母子を描いています。
母親が目を閉じて口を開ける表情から苦痛の叫びがいまにも聞こえてきそうです。
猿のように上半身にしがみつく子どもと、足元にしがみつく2人の子どもは、パニックに陥り切迫した状況を毅然と伝えています。
よくみると母親の体型は歪なかたちをしており、背景にある煙と山までも不安定なかたちから当時のカオスさを表現しているように思えます。
当時の日本軍に対する怒りにも近いメッセージと取れる作品。
当時の状況からすれば、反政府的な絵を発表することは強い圧力をかけられるのは必至だったでしょう。
外部からの批判や圧力に屈しない強い信念を持つ、勇気ある行動だったと思います。
女子像
前述しましたが、塩月先生はタイヤル族の部落によく訪れ、とりわけ女性の肖像を多く描いています。
特に注目を集めた作品がこの『女子像』です。
まるで子どものようにみえる童顔をした女性の肖像。原住民族の生命力溢れる純朴さ、純粋さを表現しています。
心はとても純真、しかしとても勇敢なタイヤル族の女性への敬意を表し、キャンバスにそれらの感情が込められています。
筆者はこの絵が一番印象的でした。
ブラックホールのような眼の奥を覗くと、タイヤル族であることの自信、困難に立ち向かう勇気と覚悟、強さという光がきらめいているように見えました。
こちらの作品は、台北市立美術館に収蔵されています。
いつか、実物を観に行きたいです。
作品を通してみえてきたもの
塩月先生の絵を見ると、どれも強いメッセージ性を感じずにはいられません。
自由に描いているとはいえ、伝えたいメッセージと技法が見事に噛み合っており、なぜだか説得されたような気になってしまいます。
塩月先生の作品は約1,600点にのぼるといわれていますが、天災と人災によりほとんどが失われてしまいました。
しかし、残された数少ない作品からも先生の伝えたかったメッセージを垣間見ることができ、また試行錯誤して導き出した自分なりの「自由」を残してくれました。
帰国後の塩月桃甫
戦争は終結し、先生は帰国することになります。
帰国後待っていたのは辛い日々。
しかし、それは彼にとって同時に新たな始まりだったのかもしれん。
帰国後〜晩年、先生はどのように過ごしたのか、先生の思想と意思はどう後世に受け継がれていったのか
エピローグをみていきましょう。
待ち受けていたどん底生活
持ち帰れるものはリュック1つに収まる程度だったといい、ほとんどの作品を台湾に置いて、1946(昭和21)年、59歳で宮崎に帰郷します。
戦後はとにかく誰もが貧しい。食料の確保もままならず、毎日生き延びるのが大変な状況。
先生も例外ではなく、絵の具も買えないほど逼迫した生活を送っていました。
米も買えず、紙も買えず、しまいには鉛筆も買えなくなったほどに生活が困窮していました。
先生は、どん底だった日々を日記にこう綴っています。
女房に働いてもらわねば
生きられぬ自分の画道など何になる
宮崎では餓死したような自分だ
生ける屍だ
生ける屍から何の作品が生まれようぞ
塩月桃甫の日記より
生きるため、不本意ながらも水彩画や水墨画などを描き生活の足しにしていました。
サインには痴銭(恥ずべきお金)と書かれており、どうしようもなかった状況がわかります。
引用元:BS-TBS「ドキュメントJ」
画家魂炸裂 お金 < 絵描き
満足な創作活動ができていない塩月先生をみかねて、教え子の中村地平が手をさし伸べます。高校の臨時教師の職を紹介してくれました。
塩月先生は1度だけ勤めたのですが、時間がもったいないからといって断ったといいます。
絵を描く時間が割かれるという理由とのこと。自分の生きる歳月を計算しての画業に取り組む画家魂をみたと、中村地平は当時について述べています。
食えなくても、僕はやっぱり絵を描きたいんだよ。 汽車通勤していると、とても絵を描く気にならないからね -塩月東甫-
中村地平『告別式前夜』より
本の装丁(本の外側のデザイン)や新聞の挿絵の仕事を受けながら生活費を稼げるようになり、周囲の応援と支援のおかげでようやく創作活動に専念できるようになります。
制作活動をしながら、宮崎大学の講師をつとめ後進を育てました。また宮崎県美術展覧会の審査員となり、戦後の宮崎県美術のリーダーとして活躍しました。
本来のタッチが蘇り、水を得た魚のように画家活動に精を出す塩月先生。
ところが、1954年1月に心臓発作を起こし67歳で他界しました。
台湾から帰国し、8年後のことでした。
台湾では批判されていた!?
台湾美術界を近代化に導いた塩月先生でしたが、台湾では批判されていました。
先生が台展の創設と、審査員をつとめたことを前述しました。
台展は計10回開催されたのですが、第9回以降から台湾人の審査員を委員会から外しました。
当時、大きく自然主義派と新興派で分かれており、新興派であった塩月先生が意図的に「台湾人審査委員はずし」をしたと反発が強まりました。
真実はわかりませんが、先生は台湾人を審査委員から排斥した張本人とされたまま、台湾を引き揚げることとなりました。
名誉回復 再評価される塩月桃甫
最近になり、台湾では塩月先生の再評価が進んでいます。
その担い手は台湾美術史の若い研究者たちです。
研究者の一人、王淑津さんの塩月先生に対する評価をこのように語っています。
台湾美術や近代美術の創成期を研究する上で、塩月桃甫という一人の画家は重要で欠かすことのできない存在です。
中心的役割を果たしたけん引者なのです。教育者としても画家としても展覧会の創設から見てもその貢献度はとても大きいのです。
塩月桃甫研究第一人者 王淑津さん
この流れを汲んで、地元宮崎県でも先生の功績や歴史の掘り起こしがされ、注目を集めつつあります。(筆者もこの流れで塩月先生を知りました)
お孫さんの塩月光夫さんは、この流れについて以下のように述べています。
時代によって人の心というのは変わるもの。
受け入れられる時代もあるだろうし、表に出ない時代もあるでしょう。
ただ、祖父が
「わかってくれる人がいればいい」
といっていたのを覚えている。
かっこいいですね!!
さいごに
塩月先生の熱い人生に興奮し記事の内容がボリューミーになってしまいましたが、いかがでしたでしょうか?
塩月桃甫に興味を持ち「もっと知りたい」と思った方は、ドキュメンタリー映画をAmazon Primeで観ていただくとより理解を深められます!
5年をかけて制作した小林孝英率いる地元宮崎のクリエイターたちの渾身の一作となっています。
ぜひ、ご覧になってみてくださいね!
ニハマガジンでは、台湾原住民族に関する様々なジャンルを情報発信していきます。
彼らの魅力をどんどん伝えていきますので、よろしくお願いします!