ルーツを辿る旅:台湾アミ族 港口部落の豊年祭をレポート

今年の7月、私は二つの大きな祭りに初めて参加した。ひとつは京都の祇園祭。コロナから一般開放された祇園祭には、国内外からそれはそれは人が集まった。四条大通りは埋め尽くされ、久方ぶりに見る歩行者天国と山鉾を見ながら酒を嗜んだひと時は、私の数少ない関西ライフの思い出になった。
国は変わり台湾。じめっとした暑さで迎えられ、参加したもうひとつの祭りというのが豊年祭である。日本ではほとんどの人が知らないと思うけれど、台湾阿美族(以下、アミ族)の文化を象徴する代表的な祭りであり、文化的意義のある祭りだ。
そんな貴重な経験をしたにもかかわらず、シェアしないわけにはいかないので、彼らの文化を少しでも読者の皆さんに知ってほしくて、この記事を書くに至った。今回は花蓮県の港口部落(部落は村にあたる行政単位、以下港口村)の豊年祭に参加してきた。
祭りの概要、当日の流れ、実際に体験してみて何を感じたのか、まとめてみたので読んでもらえたらとても嬉しい。

なぜ参加したのか?

端的に言えば、自分のルーツに対する興味関心、好奇心、探究心からくる異文化理解をしたかったから。村での生活体験、台湾原住民(今回はアミ族)の宗教観/価値観に触れてみたり、同世代の若者と話してみたかった。

学生時代、台湾留学を通して自身にアミ族のルーツがあることを知った(母方の祖母がアミ族)。それからというもの、アミ族を意識せずにはいられなかった。彼らのことを調べていく中で豊年祭のことを知った。いつか参加したいと夢を見ながら、台湾でもコロナの規制が緩和されたことを機に今年参加しようと思い立った。
参加するといっても、観光客としてなのか、中の人としてなのかで、経験できる密度は雲泥の差があることは想像に難しくない。しかし、中の人として参加するのはそう簡単ではない。後述するが、基本的に外部の人間がやすやすとコミュニティに仲間入りし、華やかな伝統衣装を着て、踊って楽しめる祭りではないのだ(例外はある)。
私にはアミ族の叔父(祖母の弟)がいる。学者であり過去に政治家として台湾原住民の地位向上に尽力していた彼に、どうにか参加できないかと連絡した。多忙なのか返信が来たのは数週間後だった。

「わかった。知り合いにかけあってみるから、少し待っていなさい」

期待できる返信内容だった。それからまた何日かして「花蓮の港口村に行きましょう」とメールが届いた。その場でLCCのチケットを予約し、出国する日を待ちわびた。

豊年祭とは?

先ほどから頻出している豊年祭とは何かを説明しよう。

豊年祭は、台湾アミ族にとってビッグイベントだ。アミニズム信仰(すべての自然物に霊が宿ると信じる思想)をする彼らは、かつて小麦を栽培していたのだが、収穫後に盛大な祝祭を行うことで神々の恩恵に感謝をしていたことが、豊年祭のルーツである。祖霊を尊び、村社会のバランス、部族の結束を高め、五穀豊穣と災難を解消するなどの願いを込め執り行われている。
村によって祭りの建て付けが異なるかもしれないが、祖霊の魂を現世に迎え入れ、唱い、踊り、寝食を共にし、最後はあちらの世に送り返す、というのが基本的な考え方だ。祖霊を祀るという意味では、日本のお盆にイメージが近いかもしれない。

農作物を収穫しきったタイミングを起点に祭りを開催するため、一般的にアミ族の豊年祭は7月から8月にかけて行われる。南方(台東県)が7月、北方(花蓮県)が8月に行われることが多く、気候の違いにより各地域の祭りの時期が異なる。参観したければ、正確な開催日は村の関係者や、現地のWebサイトで事前に確認したほうがよい。

ちなみに地域により豊年祭の呼び方は異なる。港口村では「Ilisin(イリシン)」と呼ばれている。

港口ってどんな村?

花蓮県と台東県のほぼ県境に位置する港口村。台湾アミ族の祖先が最初に上陸した場所と信じられており、ここを流れる小川が濁っていたことから、この地をアミ語で混沌を意味するMakatoaay(マカトゥアアイ)と名付けた。山と海の交差点に位置し、季節ごとに異なる風向きと湿度が特徴で、自然環境がほぼ当時のまま残っている。恵まれた環境と代々受け継がれた”生きる知恵”があったことで、村の人々は食糧に困らず暮らしていたという。
雑学になるが、台湾アミ族は地方によって民族の呼び名が異なる。台東県に住むアミ族をAmis(アミス)、花蓮県に住むアミ族をPangcah(パンツァ)と呼ぶ。つまり、パンツァがここ港口村から時代とともに各地に散らばっていった。
港口村はアミ族の伝統的な文化や祭典を原始に近い状態で保存されており、アミ族の伝統文化が色濃く残っている村の一つとして知られている。

予習をしたら

「Fakiと呼びなさい」

突然、叔父に怒られた。

祭りが始まるまでの間、台北にある叔父の家に泊めてもらっていた。長い歴史のある伝統的且つ厳粛な祭りだと聞いていたので、事前にアミ族文化を含めて予習をしようと叔父に色々と教えを乞うていた。書斎の本棚にぎっしり並べられた文献を読みながら「サブローさん、これってどういう意味ですか?」と尋ねた瞬間、場の空気がピリっとした。私はそれまで叔父のことを「サブローさん」と親しみを込めて呼んでいた(日本統治時代に付けられた名前)。それが叔父の怒りに触れたらしい。彼曰く、これからアミ族の一員として祭りに参加するのだから、礼節をわきまえろとのこと、「入境隨時(郷に入っては郷に従え)」。
アミ族の社会では、目上の人には相応の敬称で呼ぶことがならわしとされている。今回でいえば私は叔父のことを「Faki(アミ語で叔父を意味する敬称)」と呼ばないといけないらしい。
こんな感じで少しずつつ異文化理解を深めていった。

年齢階級

読者も薄々感じているかもしれないが、アミ族は上下関係にすこぶる厳しい。港口村には年齢に応じた階級がある。

蔡中涵 編著『大港口戰役的阿美族觀點 2022年8月27日』より
蔡中涵 編著『大港口戰役的阿美族觀點 2022年8月27日』より

簡単に紹介はするが、ここは読み飛ばしてもらってもよい。8つの階級があり、それぞれ役割が異なり、祭りではうまく分業して準備を進めているということだけ覚えておいてほしい。

  1. miafatay(ミアファタイ)
    • 対象年齢:15~18歳
    • 役割:「afat」は竹の葉で火を起こすの意。火付け役や雑務、配膳係、伝達係などを担う。
  2. midatongay(ミダトンアイ)
    • 対象年齢:19~23歳
    • 役割:「datong」は木材の意。伐採、薪の調達および運搬を担う。
  3. palalanay(パララナイ)
    • 対象年齢:24歳~27歳
    • 役割:「lalan」は道路の意。山を切り開いたり、田んぼに水を引いたりする。災害時は避難経路の確保・誘導を担う。
  4. miawaway(ミアワワイ)
    • 対象年齢:28~31歳
    • 役割:「awaw」は雄たけびの意。イノシシ、野サル、野鳥から農作物を守る役割を担う。祭りの準備を率先して行う。
  5. Ciromi’aday
    • 対象年齢:32~35歳
    • 役割:「romi’ad」は日中の意。人名や村人の財産、安全を守る。集会所の事務処理を担う。
  6. malakacaway(マラカカワイ)
    • 対象年齢:36~39歳
    • 役割:「kacaw」は見張りの意。村の巡回や守衛、総務を行う。祭りの際は各世帯からお米の徴収を行い、経費精算、仕入れ業務を担う。
  7. cifelacay
    • 対象年齢:40~43歳
    • 役割:「felac」は米の意。祭祀や共同狩猟、漁業の際に食べ物の分配を担う。豊年祭では客人へのおもてなしも担う。
  8. Mama no Kapah(ママノカパァ)
    • 対象年齢:44~47歳
    • 役割:「Mama」は父または長者、「Kapah」 は青年の意。リーダー的な階級で、人事管理や、下の階級への指導などを行う。支障がないよう村全体の運営も担う。

今回、中の人として参加をするわけだが、年次的にはmiawawayに属するのだろうか。どの年次に交じって参加できるかは現地に行って、村の人たちと相談して決めるとのこと。
叔父は恐らく私の面倒は見ない。村に放り込んで、すぐに台北に帰ると言っていた。さすがにこの歳で子どものように泣きじゃくることはないと思うが、知らぬ村に放り込まれることに対しては若干の不安感はある。とはいえ、言いだしっぺは自分なんだしここまできたら腹くくるしかない。

豊年祭行事日程

台北を出発する前日、叔父の知り合いから豊年祭行事日程をシェアしてもらえた。原住民の行事なのにローマ字ばかりが並んでいることに違和感を感じるが、原住民は文字文化がないため仕方がない。
とりあえず、開催期間が7/20~7/24の5日間だということはわかった。私は仕事の関係で7/22の前半までしか参加できないが、豊年祭が何たるかを感じるのには十分であろう(とこの時は思っていた)。各祭典儀式については後述するので、ここでは説明を割愛する。
「Ilisin no Makatoaay」の文字を見て、若干の緊張感と興奮が入り混じった気持ちを抱きながらその晩は早めに就寝した。

Day0

移動(台北~玉里)

早起きが習慣づいているので、早朝出発するのはそんなに苦ではなかった。台北駅から港口村へは火車(日本でいう電車)で玉里まで行き、そこからはとこの車に乗り換えて行くスケジュールだった。台湾の東側は高鐵(日本でいう新幹線)が通っていないから、主な交通手段は火車か車かバスになる。
今回、自強號という特急列車に乗ったが、新しい車体だったのか車内がとてもきれいで感動した。冷房の効きが強く、途中耐え切れず、貫通扉へ暖を取りに向かった。窓からは台北の喧騒としたビル群から一変して豊かな自然が目の前に広がっていた。目的地に近づくにつれて、緊張が増していくのがわかり、冷えた身体が余計震えた。

玉里に到着すると、はとこが出迎えてくれた。彼女と会うのは8年ぶりだった。当時、私は大学生で彼女は中学生くらいだったろうか。今は飲食店を父親と経営しているみたいだ。
マンゴー農園からちょうど収穫したばっかりのナイスタイミングに来たおかげで、腹いっぱいのマンゴーをご馳走してくれた。日本で食べるマンゴーに比べ圧倒的に甘く、果肉の歯ごたえがよい。台湾のマンゴーは世界に誇れるおいしさなんだと、誇らしげに語るは姿を見て嬉しくなり、同時に8年の歳月を感じた。
はとこの車を借りて港口村を目指す。また来るね。

全部食べていいよと言われたが、さすがに食べきれなかったので何個かテイクアウトした
全部食べていいよと言われたが、さすがに食べきれなかったので何個かテイクアウトした

教会で前夜祭

道中、Fakiが熟練のガイドのようにポイントで車を停めては解説し、また車を走らせる。とてもありがたいことではあるが、インプット量が多く、頭がパンク寸前だ。そのうち疲れて、緊張感はどこかへ飛んで行ってしまった。
港口村に到着したのは夕方前だった。移動で半日以上かかったような感覚を覚える。Fakiの知り合い(今回面倒を見てくれるおじさん/おばさん)が出迎えてくれて一通り挨拶をしたところで、出かける支度をするよう言われた。
「なにかあるんですか?」と尋ねると、どうやら教会で前夜祭をやるらしい。

原住民の村になぜ教会?と気になった方は、ぜひこちらの記事も読んでもらいたい↓↓↓

歩いていくと、村の中でもひときわ目立つ建築物が現れた。そこには伝統衣装を身にまとった村人たちが集まっていた。どうやら本当に前夜祭なるものが行われるらしい。Fakiからの事前情報はなかった。どう振舞えばいいのか心の準備ができず、必然と不安になる。ただでさえ教会での身の振り方も知らないのに。
定刻になると神父が現れ祝辞やら聖書の内容を読み上げる。チンプンカンプンなまま1、2時間が過ぎていく。周りを見ると熱心な信者が聖書を朗読している。見様見真似で朗読したが、不協和音になるのでやめた。ひとつだけ完全一致できるフレーズがあった。

「アーメン」

原住民文化とキリスト(カトリック)教の融合した姿を間近で見れた
原住民文化とキリスト(カトリック)教の融合した姿を間近で見れた

Day1

Misavelac(祭りの準備)

照りつける太陽の光で朝目が覚める。泊まっていた部屋にはエアコンがなく、風量MAXの扇風機がまるでサウナの熱波師のように蒸気をあおいでいる。全身べとべとのまま朝の身支度を済ませる。時計の針は午前7時頃を指していた。朝食を摂り終わると、「Misavelacにいこう」と車で海辺まで送り届けてくれた。到着すると体つきのいい青年たちが群れを成していた。どうやらmiawawayの連中らしい。
「彼らに混ざって動きなさい」とだけ言っておじさんは去っていた。まだ寝起きで頭が回らなかったのか、現状を理解できていない。コバルトブルーの海を眺めながら、ハッと我に返った、いきなり知らない環境に放り込まれたのだと。
自分のことを人見知りとは思っていないが、知っている人が誰もいない中であの群れに突撃するのはさすがに勇気がいる。海岸の隅でもじもじしていたら「こんにちは」と、群れの中にいた青年が流暢な日本語で話しかけてくれた。私たちは軽く自己紹介を交わした。彼は大学で原住民文化の研究をしており、Fakiの生徒でもあったらしいく、日本語に触れる機会が多かったのだそう。彼からの声掛けにどれだけ安堵したことか、とりあえず群れに混ざるきっかけはできた。
今から何をするのか聞いたところ、豊年祭前の全体集会で目上の人たちに振る舞う魚を獲るのだという。定かではないが、獲れた量により偉さや勇敢さが評価され、次期階級のリーダーに選ばれるのだとか。

人によって獲り方はさまざま。海に潜って銛をつく者もいれば、釣る者もいた
 南国らしいカラフルな魚が釣れた
南国らしいカラフルな魚が釣れた

決起集会

Misavelacとは、祭りの準備のことを意味する重要なプロセス。
毎年の豊年祭の前に、首長、各階級の代表者、関係者などが集まり、祭りの準備について協議する。そこで何をどれだけ用意するのかが決まるわけだが、準備作業としてはたとえば、村にの家庭から資金を集めたり、招待状の作成/発送したりり、食料準備、祭りに使うお酒の準備、会場設営などなど若い階級が主導で進めている。タスクに細分化したら1年がかりのプロジェクトになりそうだ。

漁獲はお昼前には切り上げ、集会所へ向かう。広場には年配の方(Mama no Kapah)が円を囲って座っている。かたや厨房は忙しく動く人たちで埋め尽くされている。獲れた魚は彼ら(cifelacay)が調理し、若い者は出来上がった料理をMama no Kapahに配膳する。もちろん私たちmiawawayもやらなければならない。猛暑日の中、重い鍋を持ち厨房と広場を何往復もした。

若い階級は地べたに座って食べる、基本は素手スタイル。
若い階級は地べたに座って食べる、基本は素手スタイル。

広場のバッシングまでを終えると、決起集会が始まった。話している内容をすべて聞き取ることは難しかったが、祭り当日の流れや注意事項の確認、祭りへの意気込み、などを各階級のリーダーから情報共有される。
その中で印象的に残った言葉があった。

「いいかみんな。我々は動物園の動物じゃない、誇り高きPangcah(パンツァ)だ。目にものを見せてやろう」

お伝えしているように豊年祭は神聖な行事である。原則、祭りの様子を撮影することはNGと注意喚起する看板も会場に置いてある。もはや観光コンテンツ化してしまった今、それを律儀に守る人はほとんどいないように思う(守っている人もいるかもしれないが)。そういった現状を認識した中でのこの一言だった。現代社会に負けんとする気概を感じる言葉だった。

集会では集めた資金と経費を細かく報告をしている
集会では集めた資金と経費を細かく報告をしている

準備はまだまだ続く

集会が終わり、やっと一息つけると思った矢先、miawawayのリーダーから召集がかかった。どうやらまだ準備は終わっていないらしい。Malitapod(送霊祭)で火に灯す藁と、お供え物に使う檳榔(ビンロウ)の確保に向かった。
藁は半年以上前から乾燥させていたらしく、どっさり積まれてあった。檳榔はというと、山に取り行くらしい。檳榔を知らない人のために補足しておくと、檳榔はヤシの木の実で昔から原住民に親しまれてる嗜好品だ。別名、噛みタバコとも呼ばれている。檳榔も祖霊と交信するためのツールなのだ。
時計の針は既に夕方5時を指していた。5人の青年が軽トラに揺られ山奥へ入る。日が明るいうちに取れないと、あとが辛い。
さて、檳榔はヤシの木に実っていると言ったがこれまた高い位置にある。足場も悪く簡単にもぎ取れそうもない。大昔は木に登って取っていたそうだが、今の若者はそこまでリスクを負いたくないのが本音である。日が沈み、タイムリミットが迫る中、車から電動装置の音が聞こえた。

「(ウィーンウィーン)これでいける」

チェーンソーで木をぶった切り始めた。文明の利器はどうしてこうも頼もしいのだろう。今日のMVP受賞は間違いないだろう。

檳榔は、皮が緑色に成熟したもののみをお供えする。十分に収穫できたところで山をあとにする。

村に戻り、若い衆だけで本番前の最後の打ち合せをする。Malitapod(送霊祭)の準備をするので、10時に集まるようみんなに告げられた。本番は午前0時から始まる。そこからほぼノンストップで明朝まで起きることになる。

時計の針は夜の7時を指していた。

Malitapod(迎霊祭)

結局、帰宅しても休む時間はほとんどなかった。夕飯を食べ、風呂に入り、支度をする。3時間などあっという間だ。それに私は考えなければいけないことがあった。

「君は港口村のメンバーに加入するかね?」

正式に村の一員となるかMalitapodが始まる前に決めなければならない。この先も中の人として参加するなら、正式なメンバーになる必要がある。

考えるポイントはいくつかあるが、私が気にしていたことは二つ。

①物理的な距離がある中で、どう関わるか
②同じ熱量を持って取り組めるか

考えた結果、中途半端な付き合い方をしそうだと思い、正式メンバーへの加入は断念した。しかし、豊年祭は見届ける。

少しばかりの仮眠を取ったあと、指定の集合場所へ向かう。丘を登っていくと、藁立てがきれいに並んでいた。集合場所はそこから少し下ったとこだった。私が一番乗りだったらしく、miawawayのメンバーは誰もいなかった。集合時間を間違えたのかと、スマホで時間を確認する。日本と台湾の時差は1時間、もしかしたら1時間早く来てしまったのかもしれない。宿に戻るのも億劫だったので、藁立てを見ながら15分くらい座り込んだ。しばらくすると何人かやって来た。結局、みんなが集まったのは本番30分前だった。
伝統衣装に着替え、伝統舞踊の練習やシミュレーションをする彼らを見て、同じ空間にいるのに遠い存在のように思えた。正式なメンバーと部外者の間にこんなにも距離があるのか、なぜだか淋しさを感じてしまう。

伝統衣装は、年齢階級ごとに意匠が異なる。若い階級ほど派手目な印象だ。miawawayの衣装は落ち着いたトーンでシンプル、勇敢な戦士を彷彿とさせる無骨なデザインがかっこいい。

miawawayのメンバーたち。日本からの参加者を快く受け入れてくれたことに感謝
miawawayのメンバーたち。日本からの参加者を快く受け入れてくれたことに感謝

午前0時が回った。若者の代表が藁立ての前に出て、祖霊を迎えるためにアミ語で何かを唱え始める。いよいよ祭りの幕が切って落とされようとしている。神聖な儀式を固唾を飲んで見守る。
暗闇の中で小さな火種が灯り、次第に火が燃え盛る。

ひとり一本の藁束を持ち、火を灯す。現場は緊張感に包まれていた
ひとり一本の藁束を持ち、火を灯す。現場は緊張感に包まれていた

藁の松明を持った青年たちが一斉に広場へと走り出す。豊年祭が始まった。
Malitapod(迎霊祭)は、祖霊を迎える大切なプロセス。男性のみがダンスサークルに参加することができ、女性と子供の参加は原則禁止されている(観覧席に座って見届ける)。これは祖霊からの罰を避けるためとのことだそうだ。現場の臨場感を動画でしか伝えられないのが心苦しい。

Malitapodは、朝の8時頃まで続く。すべての階級が総出で休むことなく唄って、飲んで、踊るのだ。なんともストイックで賑わった祭りなのだろう。唄や伝統舞踊もいくつかバリエーションがあり、それぞれ意味があるように思えた。この日までにどれだけの準備と士気を高めてきたのか、現場からにじみ出た凄みを、ただただ肌で感じざるを得ない。

Pacakat(昇格儀式)

目がかすみ始め、目をこすろうと左腕を上げた腕時計の針は朝の6時頃を指していた。
突然、広場の様子がざわつき始めた。なにやらセッティングをしているようだった。何が始まるのか興味深く見つめる。
すると、Mama no Kapah(一番上の階級)たちがぞろぞろと呼び出されて、木の器で何かを一気に飲み干しているではないか。中には飲み切れず苦しい表情をした人もいる。まさかと思い、隣にいた関係者に何を飲んでいるのか聞くと、米酒を飲んでいるという。
つまり、このPacakatはMama no Kapahたちの卒業祝いの儀式なのだ。48歳を迎える人たちは、階級を卒業し長老となる。

飲み切ったことを、頭の上で器をひっくり返すことで証明している
飲み切ったことを、頭の上で器をひっくり返すことで証明している

それにしても、一気飲みすることで周りから称賛される文化は世界共通のようだ。

Pakarong(報告)

午前8時。ダンスサークルで意気揚々と踊る戦士たちの足が止まり始め、ようやく広場の熱気が少しづつ下がってきた。
Pakarongは、簡単に言ってしまえば反省会だ。1日目全体を通して、上の階級から下の階級にあれができていないこれができていないと、フィードバックしてもらう時間なのだ。それを各階級が行うので、平気で1時間以上かかる。約8時間ぶっ通しで踊り続けた者には堪えるだろうなと労いの言葉を心の中で唱えつつ、見守った。
解散したのは午前10時頃。踊る側、観る側共にへとへとである。

1日目、お疲れさま。

Day2

Pakomodan(宴霊祭)

お昼頃に目を覚まし、ベランダから村全体を見渡してみる。人間の営みが最も盛んになるであろうこの時間に、こんなにも静寂に包まれた町/村があるのかというくらい、人っ子ひとり歩いていなかった。部屋に戻って二度寝しようかと考えたが、サウナ室でまた寝直すのはしんどいと思い、とりあえずシャワー室へ向かった。
2日目は午後4時開始で、9時に終わるPakomodan(宴霊祭)だ。神との宴を楽しむプロセスだということだが、やることは1日目と基本同じで、唄って、飲んで、踊る。
1日目がボリューミーだったためか、2日目は易しいプログラムに思えた。

16時前に広場へ向かうと、すでに始まっていた。今朝まで踊っていたわけだから疲れが全快していなくてもおかしくないのだが、誰ひとり疲れた表情を浮かべる者はいなかった。
そんな彼らに心を打たれたこともあり、今日はただの観客ではなく、彼らの頑張りを応援する立場でいたいと思った。

我ながらいい写真が撮れたと自負している
我ながらいい写真が撮れたと自負している

日は沈んだが、熱気は広場に留まり続けた。常に有酸素運動をしている彼らには水分補給が必要。私は運動部のマネージャーかのように彼らに水を供給し、熱中症で倒れないように立ち回った。今日も何事もなく終わりますようにと、心の中で願いながら。

午後9時になり2日目は終了。今夜はMama no Kapah抜きでの反省会。
miawawayのメンバーに懇親会に来ないかと誘われたのだが、部屋で寝落ちする失態を犯してしまった。明日で港口村を離れなければならないのに、好機を逃してしまった。このことを今後も悔いることになるんだろうな。

Day3

八大階級青年体能競技

3日目のプログラムは、午前8時から年齢階級別対抗体育大会があり、午後4時からは2日目と同様にPakomodanが行われる。
豊年祭のプログラムの中に体育大会が組み込まれていることに若干の違和感をお持ちの方もいるかもしれないが、息抜き的要素があるのではないかと推察している。縦社会の中で、階級を越え、ある意味無礼講に接することのできる唯一の機会と言ってもいいのではないだろうか。
今年の競技種目は多種目リレーと綱引き。勝敗ありのガチンコ勝負のため、みんなマジだ。夜の部とはまた違い、くだけた雰囲気で執り行なわれた体育大会。観てる側も楽しい。

悲しいかな、帰国するべく午前にはここを離れなければならず、豊年祭を最後まで見届けられない。実質、年齢階級別対抗体育大会でお別れすることになる。

miawawayのみんなと記念写真。年齢階級ごとにユニフォームが用意されていて、学校の体育祭のようだ
miawawayのみんなと記念写真。年齢階級ごとにユニフォームが用意されていて、学校の体育祭のようだ

豊年祭はまだ続く

最初から最後までレポートしたかった中で、読者には非常に申し訳ないが、これより先のプロセスは聞いた話と調べた知識ベースでの解説とさせていただきたい。

Day4

4日目は、外部のゲストを招待し、囲うように男女が躍るのだとか。そこでは男女のロマンチックな展開が待っている。
アミ族の伝統衣装は、服と”情人袋(情人は恋人の意味)”と呼ばれるサコッシュがセットになっている。思いを寄せる相手に気持ちを伝える際、相手のサコッシュに檳榔を入れるのだそう。
男性の情人袋に女性が檳榔を入れて、両想いだった場合は2人でダンスサークルを抜け出す。オープン型マッチング儀式なのだ。

この話を聞いたときは、青春ドラマを見ているようで心がほっこりした。

色彩色豊かなデザインが多い
色彩色豊かなデザインが多い

Day5

最後日は、祖霊を送る儀式Mipihayan(送霊祭)が執り行なわれる。このプロセスは逆に女性のみの参加となる。男性のとは異なる唄と舞踊を披露し、祖霊をあちらの世に送り返す。アミ族の豊年祭は男性の迎える儀式から始まり、女性の送る儀式で終わるのだ。

参加してみた感想

貴重な経験をさせてもらい、なにもかもが新鮮で、自身のルーツに対する尊さが心の中に芽生えた。今回の参加を通して、彼らと話し、過ごしたことで台湾アミ族の文化や営みを知れたことは間違いない。しかし、全体のほんの一部に過ぎないということ、知った気にならないということは心に留めておきたい。

あと今回、同世代の若者にどういうモチベーションで豊年祭に参加しているのか気になっていた。厳しい縦社会の中で、階級が低い者たちへの負担が大きいようにも思えたが、実際どう思っているのか聞いた。
ある青年は「私たちは使命感を持って参加している。だから準備が大変だとしても全然嫌なことなんてないよ」と答えてくれた。
また台北で働く青年曰く、都市の雰囲気やコミュニティに馴染めず、村に帰ってくることも少なくないそうだ。村に帰ってくることで自分の”居場所”、”心の拠り所”として再認識し、帰属意識がより強化されたという。
自分にはその感覚がないので(そもそもルーツは台東県の成功鎮にある)、羨ましくも思った。

文化保存の観点だと、アミ語の話者が年次が若くなればなるほど少ないという現実を目の当たりにした。たとえば、Misavelacにおける決起集会やPakarongでは、各階級の代表者が本来はアミ語で話さなければならないところ、若い階級は標準語(台湾華語)しか話せないなど、淋しさを感じた場面もあった。
原住民の母語の継承保存や記録保存は、台湾政府により何年も前から政策として進められている。それでも母語話者の減少は深刻なようだ。
帰国した後に気づいたのだが、Tamarok 阿美語工學園というオルタナティブ・スクールが港口村の近くにあり、そこではアミ語の教育を熱心に取り組んでいる。
もし興味があれば、ヨコク研究所が出版するYOKOKU Field Notes #01を手に取って読んでいただきたい。

さいごに、今回の豊年祭の参加にあたって、貴重な機会を与えていただき、現地に取り次いでくれたFaki、快く参加を受け入れてくれた港口村の皆さん、そして私を最初から最後まで面倒見てくれたmiawawayのメンバーに心から感謝を申し上げたい。
このレポートが日本の方々にとって、台湾アミ族ひいては原住民文化を知るきっかけになってくれたら嬉しい。

いつかまた訪れる日を心待ちにしている。

Information

開催時期:毎年7/20~7/25 ※事前に要確認
アクセス:花蓮駅からバス(客運1140/1145)に乗り大港口で下車 所要時間:約3時間