牡丹社事件の過去と現在をつなぐ足跡をたどって

思い返せば、世界史の授業で「台湾」という単語が登場したのは数えるほどだったように思う。せいぜい、日清戦争後の下関条約で日本に割譲された——くらいの記憶しかない(今はどうか分からないが)。

この歳になって改めて台湾の歴史を学んでみると、知らなかったことばかりで驚かされる。その中でも特に目を引かれたのが「牡丹社事件」だった。

琉球人が漂流し、台湾の先住民に襲われ、それを理由に明治政府が出兵したという事件である。当事者の子孫たちが過去と向き合い、和解へと歩み寄る様子を描いた平野久美子氏の著書『マブイの行方』(2019年)を読み、深い感銘を受けた。

今回、事件のあらましを追いながら、舞台となった恒春半島を歩きながら感じたことを綴ってみたい。

永遠の春と呼ばれる地

台湾本島の最南端に位置する恒春(こうしゅん)半島は、屏東県に属し、高雄から車で約2時間、台北からは高速鉄道と車を乗り継いで5〜6時間ほどの距離にある。「永遠の春」が地名の由来となっているように、年間を通して温暖な気候でダイビングが盛んだ。豊かな自然に恵まれ、パイワン族をはじめとする原住民族や漢人、客家人など、多民族が共生する文化的に多様な土地でもある。

恒春半島で育った玉ねぎは山から海へ吹く強い風「落山風」の影響で大玉かつ味が濃く、地元の特産とされている
恒春に伝わる伝統民謡を披露してくれた。月琴という楽器を使って台語(閩南語)で歌うのが特徴(恒春文化中心民謡館にて
台湾映画『海角七号 君想う、国境の南(2008)』の舞台となったことでも知られ、今ではそのロケ地巡りも人気の観光コンテンツとなっている

平和で穏やかなこの土地で、今から150年ほど前に台湾の命運が決まる事件が起きたとは想像もつかない。

誤解から生じた悲劇

1871年11月6日、琉球王府に年貢を納め終え帰路についた貢納船の一隻が、激しい嵐(台風と思われる)に巻き込まれた。自然の脅威にさらされること1週間、現在の台湾屏東県満州郷の八搖湾に漂着する。

66名の乗組員は見知らぬ島に上陸し、救助を求め山の中を進んだ。彷徨うこと1日、西のほうへ進むと茅葺きの人家がある村が見えた。台湾原住民パイワン族の集落——高士仏社(以下、クスクス社)だった。迷い込んできた客人たちの疲れた様子を見て、村人たちは水と食料を振る舞い、休息をとるための小屋を提供してくれた。

牡丹社事件記念公園の壁画、牡丹社事件の一部始終を描いている
写真はパイワン族が琉球人に食料を振る舞っているワンシーン

次の日、武器を持った数人のパイワン族が小屋に入ってきた。琉球人に何かを告げるのだが、言葉がわからない。筆談もできず意思疎通が全くできなかった。琉球人たちはあることを思い出す。台湾にいる首狩り族の存在を。
戦々恐々とした琉球人たちはやがて「殺されるのではないか?」という不安に駆られ、一斉に村から逃げ出した。

村人たちの目からは「怪しげな行動」に映った。原住民の文化として、水や食料を分け与えることは友好関係を結ぶことを意味する。客人としてもてなしたのに、彼らが逃げたことはマナー違反とも捉えられ、ひいては「敵国のスパイ」と疑われた可能性がある。

集落から琉球人たちが逃げる様子

客家系の商人に匿ってもらっていた琉球人たちは、結局パイワン族の勇士に見つかってしまう。「なぜ逃げたのか?」と問いただしても返ってくるのは、理解不能な言葉だけ。にっちもさっちもいかなくなった状況に苛立った勇士のひとりが、ついに蕃刀で琉球人を切り付けた。そして集団ヒステリーを引き起こり、琉球人54名の命は次々と奪われ、現場は阿鼻叫喚と化した。

阿鼻叫喚の様子。「たとえいかなる異文化衝突があっても、殺人は正当化されない」と、先祖が犯した過ちを認める子孫もいる

かろうじて生き残った12名の人々は、地元有力者により保護され最終的には那覇へ帰還することができた。漂流してから約7ヶ月後のことだった。

これを「琉球人遭難殺害事件」や「台湾事件」、台湾では「八搖湾事件」と称されている。最大の原因は「言語」と「異質な文化圏」による“誤解”から生じた悲劇と考えられている。

版図拡大を目論んだ台湾出兵

生還者12名が帰郷したのと同じくして、廃藩置県の事務手続きで琉球を訪れていた官僚は事件の顛末を知ることになる。まもなく事件の報が明治政府に届き、パイワン族への懲罰を目的とした台湾出兵の話が持ち上がった。

ここで、「琉球は日本なのか?」という疑問が浮かび上がる人もいるだろう。当時の琉球を取り巻く情勢も補足したい。

琉球王国は、伝統的に中国王朝の冊封体制下のもと朝貢(中国皇帝に貢物を捧げる代わりに、一国の君主と認められ庇護を受けられる)しながら、東シナ海の貿易拠点として繁栄していた。

ところが、17世紀初めに薩摩藩が貿易の利益拡大を理由に琉球へ出兵し、半ば無理やり服属させられ日本の保護国となった。外交上は中国に朝貢しながら、内情は薩摩藩の支配下におかれている「日中両属体制」が260年以上にわたり続いていた。

明治末期の琉球人

話は台湾出兵に戻る。
明治政府は中国・清朝(以下、清国)に対して謝罪と賠償を要求するも、琉球は王国は日本ではないこと、原住民が住む台湾の東側は「化外(けがい)の地であり、管轄外」とし、責任回避をした。後者の見解だけをみれば、たとえ台湾に攻め入ったとしても問題ないと解釈ができ、清国は出兵の口実を与えてしまったことになる。ちなみに、このとき交渉にあたっていたのは大久保利通内務卿(内閣総理大臣)だった。

大久保利通(1830〜1878)
薩摩藩出身で明治維新の中心的な指導者のうちのひとり、台湾出兵を追認した

交渉が難航している最中、日本国内では台湾出兵の機運が高まりつつあった。発足間もない新政府は、これに乗じて国際的に琉球を日本の一部と認めさせ、あわよくば台湾南部の統治も視野に入れる野心的なプランを計画する。

西郷従道陸軍中将を筆頭に出兵の準備が進み、3,600人(諸説あり)の兵が長崎港で待機していた。

西郷従道(1843〜1902)
台湾出兵を独断で決行。自ら戦艦に乗り、全責任を負うと大見得を切った

清国からの強い反発、欧米列強からの干渉され、大久保利通が待ったをかけるも、それらを振り切り1874年5月、台湾出兵(征台の役)を実行する。これが日本初の海外出兵となった。

日本軍の上陸

ここからは実際に取材した舞台と、恒春半島で起きた戦闘の歴史をトレースしていきたい。

日本軍が長崎港を出発してから戦闘までの一連の出来事を、時系列と地理情報でわかりやすくまとめられているので、以下の画像を参考にしてもらいたい。

平野久美子氏(2019)『マブイの行方(集広舎) P.65』より引用

1874年5月10日、日本が台湾南西部に上陸。

またたく間に亀山と呼ばれる小高い丘に駐屯地を築き軍事拠点を構えた。現地のガイドを雇い、実地調査を行い地形を確認したり、事件と無関係な牡丹地区にある原住民の社(コミュニティー)には戦闘に加担しないよう説得した。懲罰対象のクスクス社および同盟関係であった牡丹社への侵攻準備を着々と進めていた。

当時の日本軍が上陸した場所は現在、国立海洋生物博物館となっている。敷地内の辺りを見回しても、日本軍の駐屯地があったことなど想像がつかない。あたりを歩いていると海洋生物博物館チケット販売所の右側に石碑らしきものが目に入る。

亀山にある日本軍が上陸した記念碑「日軍 討蕃軍本営地 記念碑」
劣化により碑文を読み取ることはできない

日本軍が上陸した証として、「討蕃軍本営地記念碑」が立っていた。このように恒春半島には台湾出兵の足跡かのように記念碑が随所に立っている。

石門古戦場を歩く

準備が整った西郷率いる軍は、3つのルートで牡丹社を目指した。四重渓ルートを行くグループがついに石門峡で原住民と衝突、両者とも銃の引き金を引いた。

その日は明け方から雨が降っており、足場が悪かった。思うような戦闘ができない日本軍は苦しむ。一方、牡丹社の頭目(リーダー)アルクは20名ほどのパイワン族戦士を率いて見晴らしのいい山を陣取り、投石、弓矢、火縄銃で撃退を試みる。女性たちは石を運び、傷の手当てなど後方支援に回るなど一族総出の抵抗だった。

戦地となった石門峡谷前の門
勇敢なパイワン族戦士が迎えてくれる
山頂の眺望が素晴らしく、現在はトレッキングコースにもなっている

しかし、近代兵器と人海戦術で攻めてきた日本軍に対し、少数精鋭とはいえ旧式の武器では到底太刀打ちができないことは明白だった。とうとう頭目のアルクとその息子が討ち取られ、抵抗むなしく牡丹社の人々は撤退。

牡丹社の頭目アルク(aruqu)と息子の像
故郷を守った勇敢なパイワン族の決意と不屈の精神を讃えている

石門での戦いから1週間後、抵抗を続ける牡丹社・クスクス社の本丸を目指して3ルートから再び進軍する。1874年6月3日、総勢1,300名の兵隊が集落を焼き払い台湾出兵は完遂された。なお、事前に日本軍が来ることを知っていた村人の大半は山奥へ逃げ去ったという。

終戦後、現地では原住民と日本軍の間で和議が結ばれた。犠牲となった琉球民54名を埋葬、慰霊碑を建て、西郷自ら石碑に文字を記した。他方で、明治政府は清国と和議を進めていた。イギリスの仲介で最終的には、清国が日本に対し見舞金50万両を支払い、日本軍が撤兵することで決着した。

この際、注目すべきは交わした「日清両国互換条約」の書面にはこんなことが書かれていたことである。

「台湾の生蕃かつて、日本国臣民らに対して妄りに害を加え」

生蕃とは台湾原住民のことを指し、日本国臣民とは琉球人のことを指す。

つまり、清国は台湾出兵を義挙(正義のために起こした行動)と認めたことになる。それは「琉球人は日本国民である」ことが国際的に認められてしまうことでもあり、数年後に琉球の併合につながった。

一般的には「琉球人遭難殺害事件」「台湾出兵」をまとめて「牡丹社事件」と呼ばれている。

牡丹社事件記念碑を歩く

その日は朝から恒春半島全域で強風が吹いていた。

スクーターを借りにレンタル屋さんに来た私に、店員さんが目的地を聞いてきた。「石門古戦場」と答えると、スピードを出し過ぎず、注意深く運転しなさいと心配そうにアドバイスをしてくれた。市内までは周りの建物が風を遮り、風の影響はそこまで感じなかったが、市内を出た途端に横殴りの風に晒され、車体が揺らぐ。額に冷や汗を浮かべながら走ること約30分、ようやく現場に辿り着いた。石門古戦場は、牡丹社記念碑・石門峡谷・牡丹社事件記念公園の3つのスポットのことを指すらしい。

まず訪れたのは牡丹社記念碑。長い石段を登った先に立派なモニュメントが立っていた。

記念碑には「西郷都督遺績記念碑」と記されている

この記念碑は、石門峡の戦闘で日本軍を指揮した西郷従道の功績を讃えるために建てられた。実はこの石碑、現在は4代目。

日本統治時代(1936年)に建てられ、そのあと国民党政権下で抗日を意味する碑文に書き換えられる。2016年には牡丹社郷の管轄下にて文化資産として抗日碑文を撤去して文字のない状態で保存、2020年に歴史的建造物や街並みを修復・活用するプロジェクトの一環で、原初の姿に復元された。その時々の政権や情勢により変遷してきた石碑は、まるで時代の映し鏡のようだ。

私は石碑を目の前にして、厳かな感情に包まれた。

勝利の功績の裏に見え隠れする帝国主義の影と、それに立ち向かったパイワン族戦士たちの勇敢さ。豊かな自然に囲まれたここら一帯でまさに戦闘が行われていたと思うと、リアリティが一層増す。

加害者であり被害者でもあるパイワン族の人々。
2つの痛みを忘れないため、後世に伝えるために記念碑は残されているのだ。

牡丹社記念公園を歩く

牡丹社記念碑から10分ほど歩くと牡丹社記念公園がある。思ったより敷地は広い。牡丹社事件後、140年目の2014年に開園した。ここでは公園を散歩しながら牡丹社事件について、順を追って知ることができる。

歴史は、主語(国、地域、組織、人)によって語られ方やニュアンスが異なることは、至極当然の話だ。説明版を読んでいくと、パイワン族側の視点で事件を見つめ直すことができる。

たとえば、琉球人がクスクス社の集落に進入したことを「脅威」と表現されている。琉球人からしてみれば、助けを求めさまよい歩いた先に迷い込んでしまっただけかもしれない。クスクス社の人たちはどう思っただろうか?当時、原住民社会では部族ごとに領地が取り決められており、侵犯は御法度だった。そうやって社会秩序が維持されてきた中で、66人の見知らぬ人がぞろぞろ村にやってきてたら警戒することは容易に想像がつく。このようにパイワン族側目線での当時の気持ちや感情は、日本側の記録ではおそらくそれらが抜け落ちている。

「高士仏社(クスクス社)にとって、すでに部落への脅威でした。」という記述がある

台湾の歴史教育では「牡丹社事件」を必ず学ぶのだが、琉球人が殺害された背景や理由など説明が不十分で、牡丹社の原住民は殺人者という強いイメージだけがインプットされてきた。そのことで辛い経験をしたパイワン族の人もいただろう。

しかし、公園ができたことをきっかけに一連の事件を見直し、先代の口伝に耳を傾ける機会が徐々に増えている。

「愛と平和」人類の普遍的な願いを歩く

2024年に牡丹社事件から150周年を迎えた。

台湾と日本(宮古島)の間では定期的に意見交換をしたり、シンポジウムが開かれている。2005年、牡丹郷の代表者が宮古島を訪問し、遺族の子孫らと面会し公式に謝罪をした。それに対し宮古島側も「謝罪を受け入れる」と応じ、世代を超えた和解の道を歩み出した。2007年、牡丹郷が宮古島市に「愛と平和」記念碑を贈呈。2つの民族が酒を交わす石像が設置され、和解と友好の象徴となった。

写真は牡丹社事件記念公園の愛と和平の記念碑。宮古島市のカママ嶺公園にも同じものが建っている

パイワン族(左)と琉球民族(右)の若者がパイワン族伝統の酒器「連杯」で酒を酌み交わしている。これはパイワン族の伝統的な“和解”の儀礼をモチーフにしているそうだ。石に刻まれた文字には、過去の悲劇を語るものではない。若者は未来の象徴であり、祈りのバトンを託しているようにも感じられる。

ふたりがひとつの杯を分かち合うその所作には、心を通わせる意味がある。言葉よりも深く、握手よりも静かに、真の和解を告げるしぐさでもある。

悲しい過去を消すことはできないけれど、「愛と平和」へ向かおうとする意志をこの像からひしひしと伝わった。

マブイとvatitinganに思いを馳せて

「歴史」という漢字の成り立ちを調べてみると、「歴」は崖の下に目印の木が二本立っており、足の形が”止”を表し、進むことを意味する。そこから転じて戦争の経歴、歴史を表す字となったそうだ。

誤解から始まった悲劇。近代化のうねりの中で、大国に翻弄された台湾と琉球。誰が悪かったのか、誰が罰されるべきなのか。そうした問いに、きっと答えはない。

大切なのは、まず過去に起きた事実をフラットな目線で認識すること。そして、自分たちが似たような状況に直面した時、適切に対処するためのリファレンスを持つことだと思う。

月並みな言い方かもしれないが、「歴史から学べ」と。

この事件を題材に記事を書くことにいささかの不安と緊張があり、なかなか触れることに億劫だったことを告白する。しかし、書籍『マブイの行方(2019)平野久美子氏』との出会いが背中を押してくれた。また、執筆にあたり本書を大いに参考にさせてもらった。

勝手ながら、この場を借りて感謝申し上げたい。

傷跡を残しながらも前進する台湾と琉球の子孫たちを見て、海の向こうにいるマブイ(沖縄の方言で魂の意味)とvatitingan(パイワン族語の霊魂の意味)は何を思うだろうか。

2025年2月取材